精里之賛

谷文晁

雄壮に迫りくる波に息を呑む。波は激しくうねり波頭が勢いよく砕け散っている。なんと動きのある画面であろうか。砕け散る波の描写は大胆でありながらも、波の一瞬の動きを的確に捉え、自然の力強さを余すところなく伝えている。辺り一体には靄が立ち込め、妖しいまでに重く幽玄な雰囲気に包まれている。淡墨を墨でぼかし湿潤な大気の流れを生み出したこの表現は、視線を奥へ奥へと導き空間の広がりを感じさせる。
その一方、西洋の陰影法にならい、墨の濃淡に差をつけて波のうねりを立体的に表現している点は注目される。特に波の形に合わせて所々に加えられた濃墨の線が効果的で生き生きと真に迫っている。狩野派、明清画、西洋画と幅広い絵画技法を学んだ文晁。本品は1802年(享和2)頃の作品で30代後半の画業の成熟期に描かれたものである。水墨画に西洋の技法を効果的に取り込んだ堂々たる一品といえよう。

〔賛〕
 山湧乍谷陥摩盪
 震雷聲方其無
 觸闘澹然如砥平
 物理皆答此可以
 譬人情達者能
 觀竅導之不與
 争     壬戊嘉平
 精里題

 山湧きて 乍ち 谷陥り 摩盪す。
 震雷聲く。方に其の
 闘に触れること無く 澹然として 砥平の如し。
 物の理 皆 此を益とす。以って
 人の情に譬ふべし。 能く
 竅を觀るに 達するは 己を導き 争いを與えず
 壬戊(1802年)嘉平(12月)
 精里題す

谷文晁は1788年(天明8)に徳川御三卿の一つ田安家に出仕し、田安家奥詰となり、1792年(寛政4)からは老中松平定信付となった。文晁は定信に長い間よく仕え、定信から支援を受けて江戸画壇で活躍した。さて、松平定信は1790年(寛政2)に儒学のうち朱子学を正学とし、それ以外の学派を湯島の聖堂学問所において教授することを禁じた(寛政異学の禁)。その7年後、聖堂学問所は林家の家塾から幕府直轄の学問所となり、昌平坂学問所と呼ばれた。本品に賛を寄せた古賀精里はこの学問所でしばの柴野りつざん栗山、びとう尾藤にしゅう二州と共に教官を務め寛政の三博士といわれた人物である。精里が学問所に仕えた期間(1796~1810)は、文晁が定信に仕えていた時期と重なる。
他の文人画家と異なり隠逸的な要素がなかった文晁は、幕府に仕える学者との交流にも積極的だったのであろう。この他にも「清渓訪友図」などの文晁作品に古賀精里の賛があり、二人の親しい間柄が目に浮かんでくる。
谷文晁の生涯を語るときに松平定信の存在は欠かすことが出来ない。定信は文晁を篤く信任し文晁の芸術を支援し続けた人物である。
松平定信は文晁より5つ年上で、1758年(宝暦8)に8代将軍徳川吉宗の子・田安宗武の7男として生まれた。定信の生家・田安家には谷文晁の父・谷ろっこく麓谷が仕えており、詩人として名高く書画も能くした麓谷は、君主の田安宗武と立場を超えた交流をしていたという。そのため、定信と文晁も幼い頃から顔見知りであった。
さて、定信は15歳で白河藩松平家の養子となり、半年後に白河藩主となった。1787年(天明7)に白河藩主時代の実績をかわれ11代将軍徳川いえなり家斉の補佐として老中の役職に就き、財政の立て直しや農村の復興などを掲げた寛政の改革を断行した。また定信は学問や文芸に通じ文化人としての側面も持っていた。老中引退後には白河楽翁と号し『宇下人言』などの随筆を残している。芸術にも幼い頃から親しんでおり、大和絵風の花鳥図などを描いた。その腕前は余技としての絵画の域をはるかに越えた優れたものであった。
一方、文晁は1763年(宝暦13)に生まれ、幼少時に狩野派の画師・加藤文麗に学び、17、8歳の時には南蘋風の花鳥画や南宗北宗にこだわらず中国山水画を学んだ。また、旅を好み日本全国を遊歴してはその土地の風景を写生していた。こうして写生画の技術を磨いていた文晁に白羽の矢が立つ。1788年(天明8)に定信は海岸防備のため相州沿岸の海防調査を開始し、文晁に随行を求めたのである。さらに1793年(寛政5)にも定信の伊豆・相模の湾岸巡視に文晁が従い、風景を模写した。この2回の視察の際に描いたものをまとめたのが『公余探勝図巻』である。海防調査では実用的な記録としての役割を求められているため、西洋の遠近法や陰影法を積極的に取り入れ写生的な風景画を描いた。この仕事を通じて文晁の作域はさらに広がったといえる。
また、1796年(寛政8)に定信の命令により文晁は洋風画家・あおうどう亜欧堂でんぜん田善や画僧・白雲らと全国各地の古美術の調査を行った。古社寺の所持する多種多様な美術品を『集古十種』としてまとめている。調査にあたった美術品は二千近くにも及び、好奇心旺盛な文晁にとって日本や中国の様々な古美術に触れられたことは大きな刺激となったのであろう。30代の文晁は中国明清画を基盤として東西の多様な技法を取り入れた意欲的な作品を残した。群青や緑青の鮮やかな色彩に彩られた臨場感のある金碧青緑山水や柔和な筆法による南宗画様式の山水画など、いずれも文晁の生涯の中で最も溌剌としている。
こうして松平定信の支援により画家としての活躍の場を広げた文晁は、その作域の広さと、様々な画体を自在に描きこなす力量によって各地で知られるようになり、江戸の絵画の大御所として君臨した。文晁の画塾・写山楼には多くの弟子が集まり、渡辺崋山、たかく高久あいがい靄崖、たちはら立原きょうしょ杏所らのそうそうたる画家が輩出された。