淡粧濃抹図
浦上玉堂
『「浦上玉堂」―私の感ずる所では、彼こそ近代日本随一の大画家である。』(『日本文化私観』)日本美術史に造詣の深いドイツの建築家ブルーノ・タウトは浦上玉堂をこう称賛し、一種の印象主義の先駆と述べた。玉堂のこすりつけるような筆触、淡墨と濃墨の諧調にぞくぞくと心を震わせた人は数え切れないだろう。彼の内面から込み上げてくる自然への感情が墨という画材の特色を活かして自在に表現されている。玉堂は江戸時代の文人画家の中でひときわ異彩を放った画家である。
浦上玉堂は1745年(延享2)備前(岡山)の池田藩の支藩・鴨方藩の藩邸で生まれた。10歳から藩校に入り、15歳のときに初めて詩を学び、のちに詩人としても名が知られるようになった。1772年(安永元)28歳で結婚。1774年(安永3)には江戸在勤となり、琴の同士や儒者、画家たちと交流した。特に琴に詳しい幕府の医官・たき多紀らんけい藍溪から奏法の教授を受け、琴への関心を一層高めた。
「玉堂琴士」という号も、35歳のときに手に入れた七弦琴に刻まれていた「玉堂清韻」という語に由来している。玉堂は琴を生涯の友とし、七弦琴の名手として世に名を響かせた。画は30歳頃から文人画に興味を持つようになり、独学で学んだという。江戸在勤中には画家・中山高陽、谷文晁らと交流した。
このような玉堂は真面目で藩に忠実に使えていたが、普段から芸事を好み政治への関心は少なかったようである。1792年(寛政4)に妻を亡くし、1794年(寛政6年)、50歳のときに春琴、秋琴の二児をつれて出奔し、城崎から脱藩届を出したのであった。脱藩後、玉堂は二児をつれて江戸へ向かった。1795年(寛政7)には会津藩の招聘により江戸から秋琴を伴い見禰山神社の神楽再興のために会津へ赴いた。玉堂は会津で琴の腕前を認められて優遇され、会津藩に仕官することを勧められたが、代わりに秋琴を仕官させ会津を去った。
1805年~06年(文化2~3)には九州を遊歴し、1805年に長崎の聖福寺で大田南畝と出会う。二人は出会いを喜び玉堂が催馬楽を披露し、南畝が返礼に五言絶句を贈っている。また、玉堂が南畝に贈ったとされる「江山覓句図」が残っている。
さらに1807年(文化4)には大阪の持明院にて田能村竹田と40日間同宿した。この頃の玉堂は白髯白髪で、鶴しょう衣をまとい、朝早く起きて掃除をし、香を焚き、琴を弾き、酒を飲んで暮らしていたという。ときに詩を詠み、琴を弾き、ときに画を描く玉堂の生活ぶりや画業について竹田は詳しく随想に綴っており、玉堂と深く交流していたことがわかる。こうして玉堂は67歳で京都に落ち着くまで日本各地を巡り文化人と交流しながら放浪の旅を続けた。悠々自適な文雅の生活の中で玉堂の作品は生まれたのであった。
本品は中国浙江省抗州にある西湖を描いたものである。西湖は中国で最も美しい湖といわれている。三方を山に囲まれ古くから名勝地として名高く、中国の詩画の題材によく用いられた。中国宋代の詩人・蘇東坡は特に西湖を愛し、次のような詩を残している。
水光瀲艶晴方好
山色空濛雨亦奇
欲把西湖比西子
淡粧濃抹総相宣
水光瀲艶(すいこうえんれん)として晴れて方(まさ)に好し
山色空濛(さんしょくくうもう)として雨もまた奇なり
西湖を把(と)って西子(せいし)に比せんと欲すれば
淡粧濃抹(たんしょうのうまつ)総べて相宜(あいよろ)し
<訳> きらきらと輝くさざなみを浮かべた湖は晴れている今こそまさに美しい。
一方、雨に包まれた湿潤な山の景色もまた一味違った趣があり素晴らしい。
西湖を古の越の美人西施(西子)にたとえていうならば、
薄化粧のようなしとしとと静かに降る小雨の日も、
しっかりとした化粧のような明るく輝く晴れの日もすべて風情があり美しい。
「淡粧濃抹」という題名はこの詩に拠っていると考えられる。当事の日本の文人画家たちのように玉堂も中国の画譜類を参考にして中国の山水風景を描いただろう。しかし、詩作も能くした玉堂はそれ以上にこの蘇東坡の詩に心を動かされたのではないだろうか。旅を続ける中で自然の多様な表情に出会った玉堂。彼は西湖の晴れた日のみならず雨の日の美しさをも詠みこんだ情緒的なこの詩に共鳴し、豊かに想像を膨らませた。本品では小雨に濡れる静かな西湖の姿を詩的に描いている。
構図は玉堂作品に多い真正面からの図である。前景に西湖を囲む樹林を細やかに描く。筆の穂先を立て、淡墨の上にすっと濃墨の線や点でアクセントをつけている。また、線の太い細い、直線、弧線と多彩な筆遣いを駆使し、木々はまるで微かにざわめいているかのようである。後景は湖を静かに見守る山々。水分の多い淡墨を地に刷り込むように塗り、その上に横長の軽妙な擦筆を重ね、湿った空気に包まれてゆく山の表情を見事に表現している。
旅をしながら琴のわずかな音色に耳を傾けた玉堂は、刻々と変化する自然の様相を感受性豊かに捉えた。放浪の旅での経験が巧みな筆技により画面に表出し、神秘的な西湖の姿が臨場感を帯びている。こうした心象風景を表したかのような幽玄な山水画がブルーノ・タウトに印象主義の先駆といわせた所以であろう。