歳寒三友
岸田劉生
1921年(大正10年頃)から日本画を描き始めた劉生は、1923年(大正12年)、京都南禅寺の近辺に転居すると、それまで以上に東洋の美に対する志向を強め、南画や院体画風の作品を多く描くようになった。この作品は画賛によると丙寅(1926年)1月7日の正月七草に描かれたものである。日記に「今日は七艸、‥‥久しぶりで南畫三枚(歳寒三友と、四時有甘と、大根と蕪と蓮根との図也)かく注1。」とあるのがこの作品に該当するものと考えられる。
歳寒三友とは中国の文人画に描かれる画題で、日本では江戸時代以降の南画の好画題となった。冬の寒さに耐える松・竹・梅を高節の士に喩えたものであ注2る。この作品では松竹梅のなかで三人の童子があどけなく笑っている。正月らしくめでたい画題であり、新年の明るい空気にふさわしい。実に伸び伸びとした筆遣いで描かれ、楽しげに笑う童子の声が聞こえてきそうである。また、画賛の歳寒三友の文字も堂々とした伸びやかな字体で、寒さに負けず友と元気に語らう童子たちの姿を連想させる。
その反面、「於人不知処 造人不知宝(人の知らざる処において、人の知らざる宝を造る)」という印章には酒から抜け出せず孤独な生活を送る悲哀感の漂う劉生の姿が見え隠れする。人の知らないところで宝を作るという言葉には、自分の芸術に対する自負と思うように進まない制作に対する焦燥が共存しているかのようである。この作品の制作から約2ヵ月後、劉生は京都での酒浸りの生活に区切りをつけようと鎌倉へ引っ越している。
注1.『岸田劉生全集 第10巻』 岩波書店
注2.『論語』の中にある松や柏が冬でも葉の色を変えず常緑であることを困難に耐えて固く節操を守る君子に喩えた話が原点となっている。