山間明月
田能村竹田
やわらかく落ち着いた筆遣いによる詩情と憂愁を含んだ作品は、今も見るものの心の中に心地よく入り込んでくる。
名月の明るく輝く夜、湖畔の家で竹田と思われる一人の高士が物思いに耽っている。小画面であるが横長の形をうまく活用し、立体的で広々とした空間構成をとっている。淡墨に薄い緑青や代赭を用いて描かれた山が何とも言えず幻想的である。湖の部分には余計な筆を加えずに紙の地を活かして水面を表現しており、波もなく辺り一帯は実に静かな空気に包まれている。また、勢いにまかせて筆を走らせることを好まなかった竹田らしく、一筆一筆慎重に点苔を施している。木々や建物の描写も丁寧で真面目な竹田の人柄が表れているかのような落ち着いた深みのある作品である。画面左には竹田作の漢文が書かれている。
山間名月照平湖約客
東窓晩隱梧客到不
須門正啓先従舟裏
隔窓呼
甲午清和月於吉祥
院作併詩其上 竹田生
山間名月 湖を平らかに照らす 客と約す
東の窓 晩く梧に隠れる 客至りて
正に門の啓くをもちいず まず舟 裏より
窓を隔て呼ぶ
甲午清和月 吉祥
院において作り其の上に詩を併す 竹田 (※1)
甲午清和月は1834年(天保5)年4月にあたる。竹田はこの年1月29日に豊後の三佐から船で旅立った。京阪への10度目の旅である。2月2日、尾道に到着し、8月下旬まで滞在している。このことから吉祥院とは現・広島県三次市の吉祥院と推定される。尾道周辺はかつて菅茶山や浦上春琴、頼山陽と交友したなじみの地であり、この時も文人との交友を目的に滞在したのであろう。
さてこの漢文は、「明月の夜、月明かりが湖面を美しく照らしている。東の窓際で晩に梧の木に隠れ座っていると約束していた客が訪れた。門を開けて待っていたのに、客は家の横の湖から家へ近づき私を呼んだ。」という内容で、客を待つ場面を描いたことがわかる。竹田の退隠後の作品には日常生活の中にあるささやかな楽しみや喜びを表現したものが多い。特に山間地に居を構え、友を招くということは文人の理想的な生活であり、竹田が好んで描いてきた画題であった。
しかし、この作品では竹田と思しき高士以外に人物は見当らず、どこか寂しげである。1832年(天保3)に頼山陽、その翌年に青木木米と次々に親友がこの世を去っていった。友を失った寂しさが広い空間の片隅に小さく描かれた男の姿に集約されているように思えてならない。旅先でそれまでの友との交友を思い出しながら描いたのであろうか。この家は豊後の竹田山荘を描いた作品に類似している。(※2)
19世紀、日本の文人画は各地に広まり個性的な画家が次々と現れた。豊後南画の始祖といわれる田能村竹田もその一人である。田能村竹田は1777年(安永6年)、豊後国岡藩で代々侍医を務めていた家に生まれた。11歳の時に藩校・由学館に入学し儒学を志す。ついで江戸から招聘された儒者・唐橋君山に学んだ。10代の頃から詩や絵画に興味を持ち、詩画の同人会に参加し才能を発揮していた。
竹田は初め父の医業を継ぐことになっていたが、医業を止めて学業に専念するように藩侯から命じられ、やがて由学館の教授となる。『豊後国志』の編纂にも携わり、1801年(享和元)に『豊後国志』の納入準備のために江戸へ赴いている。1805年(文化2)には眼病の治療を兼ねて京都に遊学し、三年間に渡る滞在中に儒者・村瀬栲亭の門に入り詩文を学んだ。また、1807年(文化4)には大阪の持明院で浦上玉堂と40日間同宿している。脱藩し悠々自適の生活をする玉堂の姿は竹田に憧憬の念を抱かせたであろう。後に竹田は玉堂の人柄や絵画について著書『山中人饒舌』(1813年)の中でいきいきと語っている。さらに、1811年(文化8)京都を訪れたとき、生涯の友となる頼山陽に出会い、以後、山陽が亡くなるまで親密に交流した。1830年(天保元)、大阪の医師・松本酔古のために描いた画帖(「亦復一楽帖」)を山陽に見せ跋文を依頼すると、山陽はその画帖を大変気に入り画帖をもらいたいと熱望した。山陽の熱意に押された竹田はその画帖を山陽へ贈ることにしたという話は有名である。
また、1811年~1812年に藩内で一揆が起こると、竹田は農民に同情し藩政へ二度に渡り建言書を提出した。しかし建言は二度とも棄却され、兼ねてから隠棲の願望を抱いていた竹田は遂に1813年(文化10)37歳で隠居することを決意した。隠退後は上京と帰藩を繰り返し、頼山陽、浦上春琴、雲華上人、青木木米、小石元瑞、岡田半江らと詩と画の交歓をしながら平穏な生活を送った。1827年(文政10)には長崎に長期滞在し、中国の文物に触れ中国文人画について理解を深めている。これらの経験が竹田を文人画家として一層成長させたのであろう。竹田の画業を代表する作品のほとんどが隠退後の十年余りの間に制作されている
※1「湖間月夜図」(1834年4月)にもこの漢文とほぼ同じものが書かれており、絵の内容は家に客が舟で訪れた様子となっている。
※2『亦復一楽帖』の「山居四月図」(1830年)、「竹田山荘図」(1832年頃)などに描かれている豊後の竹田の家と類似しており、竹田の家の周辺を回想し、そこに理想的な情景を重ねて描いたと考えられる。